スポーツ史に残る選手個人の最高のシーズン50選:2021年の大谷翔平も選出

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私たちはスポーツの中で個人が成し遂げた素晴らしい瞬間を見るのが大好きです。

1988年MLBワールドシリーズでカーク・ギブソンが放ったホームラン、1999年女子サッカー・ワールドカップ決勝戦でブランディ・チャスティンが決めた決勝ゴール、1998年NBAファイナルでシカゴ・ブルズを優勝へ導いたマイケル・ジョーダンの最終ショット、ほかにもいくらでもあるでしょう。スポーツファンであるということは、そのような素晴らしい瞬間を持ち得ることを意味します。

しかしながら、そうした切り取られた鮮明な瞬間に比べて、長い期間にわたって偉大であることはしばしば見落とされます。今回私たちは『スポーティングニュース』の長い歴史(私たちの会社が設立されたのは1886年のことです)を振り返り、(主に米国の)スポーツ史に残る偉大な個人のシーズンを見つめ直してみました。ドラマ性にはやや欠けるかもしれません。しかし、シーズンを通して活躍するためには、違うレベルでの優越性が求められることがよく分かります。

最高のシーズンを選ぶことは非常に困難であり、しかしながら心が躍る作業でもありました。スポーツファンなら、これまでに現れた最高のアスリートたちの高い次元での競技力とファンや対戦相手の反応を思い出すでしょう。このリストは何百ものシーズンを含めることもできます。それでも足りないくらいです。

私たちはその中から50のシーズンを選びました。

このようなリストに順位をつけるためには、ある程度のルールが必要になります。私たちは最高のシーズンを探すわけですが、スポーツにおけるシーズンとは何かを、定義しなくてはなりません。最高のイベントを選んでいるのではないからです。

まず、私たちは主な活躍の場がオリンピック競技であった選手たちをこのリストに含みませんでした。従って、マイケル・フェルプス(水泳選手)やシモーネ・バイルズ(体操選手)の名前はリストには出てきません。確かに世界中が注目する巨大なイベントではありますが、それでもオリンピックとは単発のイベントです。ボクシングや総合格闘技には決まった日程というものがありませんので、これらも除外されました。どこかで線引きは必要なのです。ある種のスポーツでは、「シーズン」は必ずしも1年間に収まるとは限りません。しかし、私たちはすべてを12か月間の長さに限定しました。

そして、対象を人間のアスリートに限定しました。セクレタリアト(競走馬)には申し訳ありませんが――。

私たちは主にスポーティングニュースで取り上げるスポーツを対象にしました。NFL、NBA/WNBA、MLB、NHL、大学バスケットボール、大学フットボール、サッカー、ゴルフ、テニス、そしてモータースポーツです。けっして他のスポーツを軽視しているわけではありませんが、私たちがよく知るスポーツはこれらなのです。

もう1つ、1人の選手は1回しかリストに登場しません。ベーブ・ルース、ウィルト・チェンバレン、そしてウェイン・グレツキーといったスーパースターは信じがたいような成績を複数シーズンで残していますが、私たちはその中から1人の選手につき1シーズンのみを選びました。同様に、大学スポーツとプロスポーツの両方でスーパースターになった選手もリストには1回しか登場しません。つまり(種を明かすようですが)、カリーム・アブドゥル・ジャバーのロサンゼルス・レイカーズ時代に作った伝説ではなく、改名前のルー・アルシンダーがUCLA時代に残した記録がリストに入るということです。

“優勝”についても述べておかなくてはいけないでしょう。優勝とは素晴らしい実績ですし、私たちはそれを個人のシーズンを選択する際のタイブレーク要因としては使用しました。しかし、優勝タイトルが無いことはリストから除外する要因にはなりません。私たちはチームの失敗を個人の責任とは捉えておらず、また1試合か2試合の結果でリスト入りするかどうかを決めたくなかったのです。

例えば(また種明かしになりますが)、2016年のNBAファイナルで、レブロン・ジェームズを擁するクリーブランド・キャバリアーズはステフィン・カリーを擁するゴールデンステイト・ウォリアーズを破りましたが、そのシーズン全体でカリーがあげた成績はジェームズのそれをあらゆる要素ではるかに上回っていました。従って、カリーの2015-16年シーズンはリストに含まれますが、2015-16年シーズンのジェームズの名はありません。

それでは、スポーツ史に残る選手個人の最高のシーズンのトップ50は以下の通りです。


50. ウォルター・ジョンソン(野球)/1913年

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『Baseball Reference』のWAR数値(bWAR)をあてはめると、ジョンソンの信じがたい1913年シーズンにおけるそれは15.1という史上最高値だった。12.5以上の数値を出した投手はジョンソン以外にはおらず、ジョンソンは1912年にも2位となる13.2を記録している。“The Big Train”(巨大な列車)と呼ばれたこの右腕は両シーズンでまさに無敵の存在だった。特に1913年は346回を投げて、防御率1.14、そして11試合を完封した。

その1913年シーズンをさらに掘り下げてみよう。そのシーズン12試合目の登板でジョンソンは8回を投げて5点を失った。それでもその時点でのジョンソンの防御率は0.81 にしか上昇しなかった。シーズンを通して防御率は最高で1.37にまでしか上がらず、その12試合目の後で34回を連続無失点で抑えた。そのなかには延長15回を1人で投げ切った試合も含まれている。1913年5月22日付けのスポーティングニュース紙面には「アメリカン・リーグの最初の1か月間で、50人の選手が不幸にもウォルター・ジョンソンと対戦した。現存する投手記録を破り続けるジョンソンの前では、その誰もが沈黙するしかなかった」とある。

【豆知識】ジョンソンはこの年を含め1927年までワシントン・セネターズ(ミネソタ・ツインズの前身)で現役を続け、のちに監督にもなった。

49. ティム・ティーボウ(アメフト)/2007年

ティム・ティーボウの伝説はフロリダ州ゲインズビル(フロリダ大学の所在地)で忘れられない2007年シーズンから始まった。2年生だったティーボウはそのシーズン、3286ヤードと32タッチダウンを投げ、パス成功率は66.9%だった。インターセプトされたのはたったの6回だ。さらにラッシュで895ヤードを走り、23個のタッチダウンを上乗せした。同一シーズンでパスとラッシュの両方で20個以上のタッチダウンを成功させた大学フットボール史上初めての選手である。

【豆知識】“神の子”と呼ばれたティーボウは大学卒業後NFLデンバー・ブロンコスでプロデビュー。2016年には野球に挑戦し、ニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んでいる。

48. O・J・シンプソン(アメフト)/1973年

キャリア初の1000ヤードの壁を突破した翌年、シンプソンはNFL史上初のシーズン2000ヤードに到達した選手になった。1973年シーズン、バッファロー・ビルズに在籍していたシンプソンは14試合で2003ヤードを記録したのだ。第1週目の試合では、敵地で行われたニューイングランド・ペイトリオッツ戦で250ヤードのラッシュと2つのタッチダウンをあげた。シーズン終盤、ジョンソンは本拠地のペイトリオッツ戦で219ヤード、そして敵地のニューヨーク・ジェッツ戦で200ヤードで終えた。ジョンソンが123ヤード以上を獲得した試合では、ビルズの戦績は9勝0敗であったし、それ以下のヤード数の試合では0勝5敗だった。その後、7人の選手がシーズン2000ヤードに到達したが、それはすべてシーズン16試合制になってからのことである。その中でバリー・サンダースのみがキャリーごとのヤード数でシンプソンを上回っている(サンダース6.1、シンプソン6.0)。

47. グレン・ロビンソン(バスケ)/1993-1994年シーズン

”Big Dog”(大きな犬)と呼ばれたロビンソンはパデュー大学3年生のシーズンでは無敵だった。1試合平均30.3得点、10.1リバウンドを記録した。ビッグ・テン・カンファレンス内の大学選手としては、史上唯一のシーズン1000 得点に到達した選手である。その年のビッグ・テン・カンファレンスは強敵がひしめいていたが(7校がNCAAトーナメントに進出した)、ロビンソンには関係なかったようだ。パデュー大学を29勝5敗の戦績とマーチ・マッドネス(NCAAトーナメント)の第1シードへ導いた。そしてイリノイ大戦では49得点、オハイオ州立大戦では40得点、さらにカンザス大戦では大学のポストシーズン記録となる44得点をあげた。

※1994年、NBAドラフト全体1位指名でミルウォーキー・バックスに入団し、プロとしても活躍。

46. キャム・ニュートン(アメフト)/2010年

ニュートンが大学フットボールでフル出場したのはたった1シーズンだけだが、その年の活躍は目覚ましかった。それはティーボウのシーズン記録をあらゆる角度から上回るものだった。まず、第4週目の南カロライナ大戦では21パス中16個を成功させ、パスで158ヤードと2個のタッチダウン、さらにラッシュで176ヤードと3個のタッチダウンを獲得した。ニュートンが演じた最大のハイライトは間違いなくアイアン・ボウルだった。24点差で負けていたタイガース(オーバーン大学)を引っ張り、3つのパスと1つのラッシュでタッチダウンを奪い、逆転勝利をもたらしたのだ。その年のニュートンはシーズン合計で2854 ヤードのパス、50個のタッチダウン(パスで30個、ラッシュで20個)を記録し、オーバーン大学は14勝0敗の戦績で全米チャンピオンに輝いた。

【豆知識】2011年NFLドラフト全体1位でカロライナ・パンサーズに入団。2021年も現役。

45. ルイス・ハミルトン(モータースポーツ)/2020年

ハミルトンが(F1の)1シーズンに11レースで優勝したことは2020年シーズンが初めてではなかった。しかし、世界的なパンデミック下でそれを成し遂げたことの意味は大きい。オーストラリアの開幕戦では4位に終わったが、その後のレースで3連勝(シリア、ハンガリー、英国)を飾った。8月にはスペインとベルギーのレースで2連勝、9月にはトスカナで1勝、そして10月と11月にかけて5連勝した。ハミルトンはレース場において歴史的な成功を収めただけではなく、人種差別に反対する社会的活動にも極めて熱心であったことで知られている。自身の信条を雄弁に語り、かつ積極的に活動した。

44. セリーナ・ウィリアムズ(女子テニス)/2002年

ウィリアムズ姉妹の妹として華々しく登場したセリーナは1999年に全米オープンで優勝したものの、2000年はグランドスラム大会で一度も決勝戦に進めなかった。2001年も準々決勝以上に進出したのは1回だけで、そのときは全米オープンの決勝戦で姉のビーナスに敗れた。そして迎えた2002年、セリーナはシーズン最初のグランドスラム大会である全豪オープンを故障により欠場した。

しかし、ツアーに参戦するすべての選手にとって不幸なことに、その後にセリーナの逆襲が始まった。シーズン残りのグランドスラム大会ですべて優勝したのだ。それも3回とも姉からストレート勝ちを収めた。シングルス決勝の姉妹対決は制したものの、ウィンブルドンではビーナスと組んでダブルスでも優勝した。そのシーズン、セリーナはさらに5勝を上乗せし、最終的に56勝5敗の成績を残した。

43. ラダニアン・トムリンソン(アメフト)/2006年

身長約178cmで筋肉の塊のようでありながらスピードに長けたトムリンソンはテキサス・クリスチャン大学から2001年のNFLドラフトで全体5位の指名を受けた。トムリンソンがスター選手であることはすぐに明らかになった。新人シーズンを1236 のラッシングヤード、10個のタッチダウン、59個のパスキャッチ、そして367 ヤードの成績で終えたのだ。2003年には、1645 のラッシングヤード、100個のパスキャッチ、そして725 ヤードと、さらに成績を伸ばした。

しかし、2006年こそが真に特筆するべきシーズンだった。トムリンソンはその年、NFL最優秀選手賞(MVP)に選出され、今でも残る2つの記録を達成したのだ。16試合で28個のラッシング・タッチダウンと3つのパスキャッチによるタッチダウンを成功させ、合計31個を記録した。それも短い距離のランだけではなく、リーグトップであり、自身のキャリアハイでもある、1815 のラッシングヤード、56個のパスキャッチ、そして506ヤードを獲得した。100ヤード以上のラッシュを9試合連続で記録し、サンディエゴ・チャージャーズ(当時)はその9試合すべてで勝利した。プレーオフではトムリンソンは187ヤードと2つのタッチダウンを成功させたが、フィリップ・リバース(クォーターバック)が32パス中わずかに14個しか成功させず、チャージャーズはニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。

42. ドミニク・ハシェック(アイスホッケー)/1997-1998年シーズン

ハシェックは1996-97年シーズンにハート記念賞トロフィー(NHLの最優秀選手賞)を獲得した。同賞がゴーリーに与えられたのは1961-62年シーズンのジャック・プラント以来のことだった。そしてハシェックはその歴史的な偉業を成し遂げた翌年、さらに成績を伸ばした。GAA(ゴール防御率)を2.27から2.09に落とし、セーブ率を.930から .932 に増やしたのだ。バッファロー・セイバーズが戦った82試合中72試合に出場し、1974-75年シーズンにバーニー・ペアレントが達成して以来となるシーズン10個以上のシャットアウト(13)を記録した。1997-98年シーズンにハシェックが2位のヤロミール・ヤーガーに大差をつけて2年連続でハート記念賞に選出されたことは、何ら驚くべきことではなかった。

【豆知識】出身国チェコ代表など含め、2011年まで現役として活躍し、NHL史上で五指に入る守護神(ゴーリー)として知られる。

41. アニカ・ソレンスタム(女子ゴルフ)/2005年

全米女子プロゴルフ協会(LPGA)史上最高選手のピークは2005年シーズンに訪れた。ソレンスタムは20個のトーナメントに出場し、そのうちの10回で優勝したのだ。それには3月に3回、6月に2回、そして11月に2回の優勝が含まれる。2位に2回、トップ10にはなんと15回入った。メジャー大会も2つ制した。クラフト・ナビスコ選手権では2位に8打差をつけ、全米女子プロ選手権では3打差だった。9月のソルハイム・カップでは4-1のポイントを獲得した。平均スコア69.33でLPGAのトップを5年連続で守り、AP年間最優秀女子アスリートに選出された。

40. ノバク・ジョコビッチ(テニス)/2015年

ジョコビッチはこの年ずっと世界ランキング1位の座を守り続けた。82勝6敗、11個のトーナメントで優勝し、準優勝も4回あった。4つのグランドスラム大会のうち3つで優勝した。全豪オープン決勝でアンディ・マレーに、そしてウィンブルドンと全米オープンではロジャー・フェデラーに、それぞれ勝利した。全仏オープンではクレーコートの絶対王者であるラファエル・ナダルを準々決勝で破ってもいる。ナダルがローラン・ギャロス(全仏オープンの会場)で敗れたことは2005年以来でわずか2回目のことだった。決勝戦では第1セットをスタン・ワウリンカから奪ったが、その後の3セットを落とし、優勝を逃した。

39. ダイアナ・タラーシ(女子バスケ)/2006年

タラーシの名はコネティカット大学、WNBA、そして米国女子バスケットボール代表チームにおいて、常に優勝チームの代名詞として語られる。従って、プレーオフ進出さえも逃したシーズンを我々が選ぶことは奇妙に感じられるかもしれない。しかし、2006年シーズンのタラーシは、今でも残るWNBAの最多得点記録をいくつも樹立したのだ。1試合平均25.3得点である。1試合平均24得点に到達した唯一の選手でもある(WNBAの試合は40分間)。121回の3ポイントショット成功もトーラジが持つ最多記録である(シーズン88回以上を記録した選手はほかにいない)。シーズン860得点も最多記録である。ほかにシーズン800得点以上を記録したのはマヤ・ムーアだけだ。

38. ランディ・モス(アメフト)/2007年

NFLファンなら誰でもモスがデビューシーズンにリーグ全体へ与えた衝撃を覚えているだろう。1998年シーズン、マーシャル大学からプロ入りしたばかりのモスはキャッチ平均で19.0ヤードと17個のタッチダウンを記録したのだ。しかし、モスにとって最高のシーズンは2007年だった。ニューイングランド・ペイトリオッツに移籍し、NFL史上最高のクォーターバックと呼ばれ、将来の殿堂入りが確実視されるトム・ブレイディのパスを受けることになった年だ。

モスは第1週目には183ヤードと1個のタッチダウンを獲得した。ブレイディが投じた9つのパスすべてをキャッチした。そしてその後の3試合で、2つのタッチダウンと、毎試合100ヤード以上を積み上げた。そのシーズン中、モスは8試合で2個以上のタッチダウンパスをキャッチした。最高は第11週目の4個だ。合計23個のタッチダウン・キャッチはNFL最多記録である。モスは合計で1493ヤードを獲得し、ペイトリオッツはシーズンを無敗で終えた。

37. リチャード・ペティ(モータースポーツ)/1967年

”The King”というニックネームで呼ばれることは容易なことではない。ペティはNASCARレースで史上最多の200勝という大記録を持つドライバーだ。史上2位のデイビッド・ピアーソンより95勝多いのだ。だがペティがここにいるのはそのためだけではない。1967年、ペティはエントリーしたレースの半分以上で優勝した。48レース出場で27回の優勝である。もちろん、断トツでNASCAR史上シーズン最多優勝回数である。

1972年にNASCARは「近代」に入り、レースの数は激減した。しかし、ペティの偉大さは優勝の回数だけでは語れない。1967年のペティは出場したレースの56%で優勝した。この勝率を2021年の36レースにあてはめると、20回の優勝という計算になる。近代になって以来、13回より多く優勝したドライバーはまだ1人もいない。

【豆知識】トレードマークは青い車体に43番のマーキングで、映画出演時によく登場する。2006年のピクサー映画『カーズ』ではストリップ・ウェザーズ役の声優を担当。劇中ではペティ自身が経験した事故の再現シーンもある。

36. ペイトン・マニング(アメフト)/2013年

殿堂入りを果たした名選手たちの中で、37歳でキャリア最高のシーズン成績を残した選手はさほど多くない。しかし、2013年にデンバー・ブロンコスに所属していたペイトンは過去のどのシーズンよりも好成績を残した。パッシング・ヤードの5477ヤードとパッシング・タッチダウンの55個は、どちらもNFLのシーズン最多記録である。ブロンコスはレギュラーシーズンを13勝3敗で終え、シーズン最多の606得点を記録し、スーパーボウルへと駒を進めた。マニングはカンファレンス決勝でライバルのトム・ブレイディ擁するペイトリオッツを蹴散らしたが、スーパーボウルではシアトル・シーホークスに大敗した。

35. ロッド・レーバー(テニス)/1969年

ロッド・レーバーはアマチュアだった1962年に4大大会すべてで優勝し、年間グランドスラムを達成。そして1969年にはプロテニス選手として、同じ偉業を成し遂げた。このオーストラリア人スターをこのリストに推すのは、プロシーズンのほうだ。なぜなら、男子テニス選手で同一年に4大大会を連続優勝した選手はほかにいないからだ。年間3大会優勝を果たした選手は多いが、4大会優勝はいない。レーバーはその年間初タイトルを母国オーストラリアで獲得した。最も重要な勝利は決勝戦ではなく、同じオーストラリア人で左利きのトニー・ローチと戦った準決勝だった。当時はタイブレークの制度がなく、この試合は猛暑の中で4時間を越えた。レーバーは7-5, 22-20, 9-11, 1-6, 6-3でこの試合を制した。その後の全仏オープンはストレート勝ち、ウィンブルドンは4セットで勝利した。全米オープンでは準決勝でアーサー・アッシュを下し、決勝戦ではローチと再戦し、7-9, 6-1, 6-2, 6-2で勝利した。

【豆知識】2021年、ノバク・ジョコビッチが男子で52年ぶりの年間グランドスラムに加え、東京五輪金メダルを含めた”ゴールデンスラム”に挑んだが、五輪と全米オープン制覇を逃し、失敗している。

34. ミシェル・エイカーズ(女子サッカー)/1991年

エイカーズは米国女子サッカー代表チームに現れた初めてのスーパースターであり、ポイントゲッターだった。その才能は1991年の第1回FIFA女子ワールドカップで遺憾なく発揮された。エイカーズは準々決勝の台湾戦で5得点をあげ(前半に4点)、決勝戦のノルウェー戦で2得点をあげた。最後の得点は80分制の試合で79分目、1対1で同点だった場面であげたものだ。それにより米国チームは2-1で勝利し、優勝を飾った。エイカーズはこのシーズンで26試合に出場し、39ゴールという驚異的な成績を米国チームで残している。

33. トニー・ドーセット(アメフト)/1976年

ドーセットはピッツバーグ大学4年生のときに忘れがたいシーズン記録を作った。NCAA史上最多のラッシング・ヤード記録を樹立しただけではなく(この記録は後にリッキー・ウィリアムズに破られた)、シーズン2000ヤードのパス記録を作った最初の選手になった。シュガー・ボウルでは202ヤードを獲得し、ピッツバーグ大が27-3でジョージア大を破った原動力になった。ピッツバーグ大はこの年12勝0敗の記録と、同大史上唯一の全米優勝を勝ち取った。シュガー・ボウルを含めると、ドーセットは2150 ヤードのラッシュと23個のタッチダウンを記録し、もちろんハイズマン賞(大学フットボールの年間最優秀選手賞)に選出された。

【豆知識】1977年にダラス・カウボーイズ入りし、年間最優秀新人賞を獲得するなどプロでも活躍。NFL史のランニングバック10傑に数えられる。

32. クリスティアーノ・ロナウド(サッカー)/2015-2016年シーズン

バロンドールを5度受賞しているロナウドは驚異的なシーズンに事欠かない。しかし、2015-16年シーズンこそが真の伝説と呼べるだろう。レアル・マドリードに在籍していたロナウドはそのシーズンに48試合で51得点をあげた。もちろん同クラブの歴代シーズン最多記録であるし、チャンピオンズリーグ優勝の原動力になった。そしてロナウドはその年にチャンピオンズリーグ史上最多得点記録も作った。決勝戦ではロナウドがPK戦で放ったシュートがマドリードの優勝を決定づけた。9月にはポルトガルをユーロ2016優勝へ導いた。ロナウドはその大会でも3ゴール、3アシストの結果を残し、シルバーブーツを受賞した。

31. マルチナ・ナブラチロワ(女子テニス)/1983年

ナブラチロワが1983年にいかに圧倒的な存在であったかはおよそ信じがたいレベルである。87試合に出場し86勝したのだ。男女を問わず、テニス史上最高の勝率である。ウィンブルドン、全米オープン、そして全豪オープンのグランドスラム3大会をすべてストレートセットで優勝した。さらにダブルスのタイトルも3つのグランドスラム大会で獲得している。4つめはエントリーしなかった。世界ランキング2位だったクリス・エバートとの対戦成績は6勝0敗だった。ナブラチロワのそのシーズン唯一の敗戦は非常にショッキングであったし、現在でもそうだ。全仏オープンの4回戦で当時ランキング30位にも入っていなかったキャシー・ホーバスに6-4, 0-6, 6-3で敗れた。

30. ジム・ブラウン(アメフト)/1963年

ジム・ブラウンが1957年にクリーブランド・ブラウンズで新人シーズンを迎える前、シーズン最多ラッシング・ヤードの記録は1947年にニューヨーク・ヤンキースのスペック・サンダースが記録した1432ヤードだった。それ以来、1200ヤードを超えた選手はいなかった。ブラウンは2年目に早くもその記録を更新し、1527ヤードと17個のラッシング・タッチダウンを12試合で獲得した。この記録は1963年シーズンまで破られなかった。ブラウンはそのシーズン最初の2試合で394ヤードと4個のタッチダウンという爆発的なスタートを切った。シーズン14試合で、ブラウンは220ヤード以上を2回、どちらも敵地で記録し、150ヤード以上は6回を数えた。最終的にシーズン1863ヤードという驚異的な成績を残した。レシービングでも268ヤードを記録し、ラッシングとレシービングを合わせて2000ヤードを超えた最初の選手になった。

【豆知識】NFL史でも最も偉大な選手としてリスペクトされる人物だが、引退後は映画俳優としても活躍し、1996年『マーズ・アタック!』での元ボクシング王者バイロン・ウィリアムス役などでも知られる。

29. ジョシュ・ギブソン(野球)/1943年

野球界は様々な二グロ(アフリカ系アメリカ人)リーグの記録を調査するという困難な作業に従事している人たちに感謝すべきである。そうした数字は我々がそれまでは聞いたことしかなかった伝説的な野球選手の姿を鮮明に浮き上がらせてくれる。ジョシュ・ギブソンの伝説に隠れていた数字もその1つの例だ。1943年シーズン、ホームステッド・グレイズに在籍していたギブソンは打率.466、出塁率.560、長打率.867という信じがたい成績を残した。69試合で20本の本塁打、109打点、93得点、22本の2塁打、そして9本の3塁打を打ったのだ。

スポーティングニュース社はその当時、黒人の野球選手を無視していたが、それでもギブソンを最初に『黒いベーブルース』と呼んだのも同社である。そして我々は今ではブレット・ローガンのような他のスターの存在も知っている。ローガンはカンザスシティ・モナークスに所属した投手であり、打者でもあった。1925年、ローガンは投手として155 回1/3を投げ、防御率は1.74の成績を残し、打者としては145打数で打率.360、1.016 OPSだった。MLBは2020年12月に二グロリーグを「公式」のメジャーリーグと認定した。同リーグの調査は今後ますます進み、我々にもっと全体的かつ正確な記録を明らかにしてくれるだろう。

28. レブロン・ジェームズ(バスケ)/2012-2013年シーズン

オハイオ州アクロン出身の少年がNBA10年目のシーズンで歴史に残るパフォーマンスを演じた。1試合平均26.8 得点、 8.0 リバウンド、そして 7.3 アシストである。フィールドゴール成功率(56.5%)と3ポイントショット成功率(40.3%)はキャリア最高だった。選手のパフォーマンスを評価する指標(PER)は31.6、勝利への貢献度を評価する指標(Win Shares)は19.3で、どちらも自身の2008-09年シーズン(クリーブランド・キャバリアーズ時代)をわずかに下回っただけだった。

2012-13シーズンを選んだ理由? この年のジェームズとマイアミ・ヒートはNBA王座を勝ち取ったからだ。ミルウォーキー・バックスを4試合、シカゴ・ブルズを5試合で次々と下し、東カンファレンス決勝ではインディアナ・ペイサーズとの厳しい戦いを制した。このシリーズ7試合でジェームズは平均29得点をあげた。NBAファイナルではヒートはサンアントニオ・スパーズに2勝3敗とシリーズ敗退の危機に追い込まれた。ところが、シリーズ第6、7戦でジェームズは自身最高のパフォーマンスを見せた。平均34.5 得点、11.5 リバウンド、 7.5 アシスト、そして2.5 スティールの大活躍で、ヒートは連勝し、シリーズ逆転優勝に成功した。

27. デリック・トーマス(アメフト)/1988年

全米大学体育協会(NCAA)は2000年シーズンまでサック(ボールを持ったクォーターバックをタックルで倒すプレイ)を正式なフットボールの記録として扱わなかった。NFLでは1982年からこの記録を取り始めていたにもかかわらずである。従って、トーマスの名を公式記録保持者として見つけることはできない。それでもアラバマ大のトーマスが発揮したラッシングに関する伝説には事欠かない。

トーマスはラインバッカ―として登録されていたが、それは正確にポジションを表わすことができなかったからに過ぎない。トーマスは守備陣を自由に動き回り、いつでも敵のクォーターバックに襲い掛かった。それはただのサックではなかった。トーマスは最高のラインバッカ―に贈られるブトクス賞に選出された。その年のトーマスは2本のキック(1本のフィールドゴールと1本のパント)までブロックしたのだ。39個のタックルを記録し、そのなかにはテキサスA&M大戦であげた7個(大学記録)も含まれる。そして44個のクォーターバック・ハリーを積み上げた。

【豆知識】1989年NFLドラフト全体4位でカンザスシティ・チーフスに入団。プロでも数々のタックルを決め、1990年のサックリーダーに輝いた。

26. サンディー・コーファックス(野球)/1965年

1963年と1966年を選びたい人もいるだろう。だが我々が考えるコーファックスのピークシーズンは1965年だった。”The Left Arm of God”(神の左腕)と呼ばれたコーファックスはそのシーズンに335回2/3を投げ、当時のMLB記録となった382個の三振を奪った。4日の1度の頻度でロサンゼルス・ドジャースのマウンドに登り、防御率2.04、FIP 1.93 、WHIP 0.855 というシーズン記録を残した。ドジャースはナショナル・リーグのペナント争いでサンフランシスコ・ジャイアンツを僅差で振り切った(ドジャース97勝、ジャイアンツ95勝)。ワールドシリーズでのコーファックスはさらに凄まじかった。防御率は0.38で、それには第5戦と第7戦の完封も含まれる。その2試合で対戦した62人の打者から20個の三振を奪った。与えた安打はシングル6本と2塁打が1本のみである。

25. ジョー・バロウ(アメフト)/2019年

大学フットボールのディビジョン1(1部リーグ)でシーズン5000ヤード以上を記録したクォーターバックはこれまでに17人いる。しかし、その中でチームを全米優勝へ導いたのはバロウだけだ。バロウは最も重要な場面で最高のプレイを見せた。所属していたルイジアナ州立大学の守備陣は強力とは言えず、しばしばそのような場面が起きた。

例えば11月9日にランキング2位のアラバマ大と対戦した試合では、バロウは393ヤードのパスを成功させ、3個のタッチダウンを奪い、インターセプトは1個も許さなかった。ルイジアナ州立大学はその試合を46-41で勝利している。それだけではなかった。シーズン最後の3試合(ランキング4位のジョージア大と対戦したSECタイトル戦、ランキング4位のオクラホマ大と対戦したプレーオフ準決勝、ランキング3位のクレムソン大と対戦した決勝戦)で、バロウは69.9%のパスを成功させ、合計で1305ヤードと16個のタッチダウンをあげた。そしてここでもインターセプト数は0だったのだ。

【豆知識】2020年のNFLドラフト全体1位で地元オハイオのシンシナティ・ベンガルズに入団。デビューイヤーに左膝に大怪我を負ってシーズンを終えたが、復帰した2021年シーズンではチームを牽引する存在になっている。

24. マリオ・ルミュー(アイスホッケー)/1988-1989年シーズン

NHLの歴史で1シーズン160得点以上はこれまでに13回達成されている。ウェイン・グレツキーが9回、そしてルミューが4回である。1988-89年シーズン、ルミューはあとわずかで200得点に届かなかった。11月に2試合(上腕部の故障)と3月に2試合(股関節の故障)の欠場がなければ、その記録は達成されていたはずである。このシーズン、ルミューは3回のハットトリックを決めた。その中には5個のゴールを決めた試合も含まれる。そして26試合で最低4ポイント以上の得点をあげた。『スーパーマリオ』と呼ばれたルミューの1992-93年シーズンも忘れてはならない。シーズン中盤で癌の治療のために2か月近くも欠場したにもかかわらず、それでも60試合で160ポイントを記録したのだ。

【豆知識】一度目の現役引退後の1999年、当時破産危機にあった古巣のピッツバーグ・ペンギンズを救うためチームを買収してオーナーになると、のちに現役選手としても復帰。2006年まで活躍した。

23. オスカー・ロバートソン(バスケ)/1961-1962年シーズン

”Big O”と呼ばれたロバートソンがここにいる理由は明らかだろう。シンシナティ大学時代に輝かしいキャリアを積んだロバートソンは、NBA入りしてわずか2年目のシーズンで、シーズン平均トリプルダブル(個人成績3部門で二桁成績を残すこと)を達成した史上初の選手になったのだ。ロバートソンは新人シーズンでその記録をわずかに逃した。1試合平均アシスト数が9.7だったのだ。しかし2年目の記録は1試合平均が30.8得点、12.5リバウンド、そして11.4アシストと、文句がつけようのないものだった。そのシーズンの79試合で42回のトリプルダブルを達成した。そしてなんと7試合で最低15得点、15リバウンド、15アシストまでも達成した。

その中でも最高の試合とは? 2月13日にウィルト・チェンバレンと対決したサンフランシスコ・ウォリアーズ戦をあげてみよう。チェンバレンは65得点と22リバウンドをあげた。しかし、ロバートソンは42得点、18アシスト、そして15リバウンドで対抗した。そしてチームは20点差をつけて勝利したのだ。

【豆知識】シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)には1960年から1970年まで所属。ミルウォーキー・バックスには1974年まで所属し、NBA史上最高の選手の1人として語られる存在となった。

22. ディオン・サンダース(野球&アメフト)/1992年

サンダースはMLBとNFLの両方で8シーズンにわたってプレイした。この両リーグでのデュアル・キャリアはボー・ジャクソンのそれより長い。そのサンダースのキャリアから、我々は特に1992年シーズンを選んだ。フロリダ州立大からプロ入りした最初の3年間は、サンダースはメジャーリーグで良い成績を残すことはできなかった。打率は.183、bWARの数値はマイナス1.2だった。1992年シーズンになると様変わりした。アトランタ・ブレーブスでの出場は97試合に留まったにもかかわらず、3塁打を14本(ナショナル・リーグ1位)、打率.304、盗塁26個、そしてbWARは3.2 の成績をあげたのだ。

さらにトロント・ブルージェイズと対戦したワールドシリーズでは、サンダースの打率.533と出塁率.588は両チーム1位であり、得点数でもトップタイだった。フットボールではすでにNFL屈指のコーナーバックとして活躍していたが、1992年のそのシーズン、3個のパスをインターセプトし、初めてプロボウルに選出された。

21. ピート・マラビッチ(バスケ)/1969-1970年シーズン

大学バスケットボールのディビジョン1(1部リーグ)で1試合平均42得点以上を達成した選手は史上1人しかいない。そして『ピストル・ピート』と呼ばれたマラビッチはそれを3回達成した伝説の選手である。2年生で43.8、3年生で44.2、そして最終学年の1969-70年シーズンは44.5 だった。 そしてこの記録は3ポイントショットが大学バスケットボールのルールに追加されるよりはるか以前に作られたものである。

マラビッチはどのような距離からでもシュートが打てた。もし3ポイントショットがあったら、マラビッチがどれだけの記録を作ったかを想像することは楽しい。1969年12月6日付のスポーティングニュースはこう書いている。「ピストルはすべてのショットに長けている。速攻からの得点が最も目立つが、コート後方からチャンスを窺うトリッキーなプレイも完璧で、多くの3ポイントと相手守備陣のエラーを誘っている。ジャンプ力は高く、着地はスムーズだ。ディフェンダーとの距離が近いときはチャージングになるような前進も見せる。マラビッチは35フィート(約10.7メートル)の距離やコーナーぎりぎりから、教科書のような両手のシュートを決めることができる」。

【豆知識】1970年にアトランタ・ホークス入りし、1974年からニューオーリンズ(現ユタ)・ジャズ、1980年にボストン・セルティックスと、10シーズンにわたってNBAで活躍。優勝には縁がなかったが、1977年の得点王やオールスターに5度選出されるなど、人気と実力を誇った。2021年に発表されたNBA75周年記念チームにも選出されている。

20. シェリル・ミラー(女子バスケ)/1985-1986年シーズン

シェリル・ミラーは革命的な大学女子バスケットボール選手だった。コートに立つ前からすでにスーパースターだった。身長188cmのカリスマは常に期待を上回っていた。ネイスミス賞(大学バスケットボールの年間最優秀選手賞)を3回受賞し、オール・アメリカン・チームに4回選出され、南カリフォルニア大を2度全米チャンピオンへ導いた。その中からどのシーズンを選べばいいのだろうか? その選択は容易ではない。

ミラーは1年生と2年生のときに南カリフォルニア大を全米チャンピオンに導いた。1試合平均で20得点以上と約10リバウンドを記録した。3年生の1984-85年シーズンは成績の上では最高だった。1試合平均26.8得点、12.2 リバウンドだった。最終学年の成績もそれから大きく劣っていたわけではない。1試合平均25.4得点、12.2リバウンドで、特筆すべきはフィールドゴール成功率をキャリアハイの60.9%に、そして1試合平均スティールを4.0に、それぞれ伸ばしたことだ。さらに1試合平均の2.5ブロック、2.6アシストも記録した。南カリフォルニア大はその年も全米決勝に進んだが、無敗のテキサス大に敗れた。

ミラーはその年のタイトル戦をそれ以上負けることはなかった。7月にモスクワで行われたグッドウィル・ゲームズにおいて、ミラーは米国代表チームを優勝へ導いたのだ。大会中のミラーは1試合平均20.6得点、9.6リバウンドの活躍で、それまで無敵の存在だったソ連代表チームを破った(それ以前の30年でソ連代表チームの戦績は152勝2敗だった)。1か月後のFIBA世界選手権でも、ミラーは決勝戦で23得点をあげ、またしてもモスクワでソ連代表チームを破り、米国代表チームは優勝を飾った。

【豆知識】弟はNBAインディアナ・ペイサーズで活躍したレジー・ミラー。姉弟でプロバスケットボールの世界で活躍した。

19. ローレンス・テイラー(アメフト)/1986年

テイラーは全キャリアを通してNFL史上最も恐れられたデイフェンダーの1人として伝説的な存在だった。そして1986年には守備陣の選手としては史上2人しかいない最優秀選手賞(MVP)受賞者の1人となった。テイラーはクォーターバックにとって脅威以外の何ものでもなかった。そのシーズンに20.5個のサックを記録した。ニューヨーク・ジャイアンツは14勝2敗でレギュラーシーズンを終え、プレーオフではサンフランシスコ・49ersとワシントン・レッドスキンズ(当時)を連破した。その両試合の合計スコアは66-3だった。テイラー自身も両チームの合計得点以上を得点した。そして49ers戦では、ラインバッカ―としてインターセプトからのタッチダウンも記録した。

【豆知識】1990年代のプロレスファンにとっては、WWE(当時WWF)年間最大イベント「レッスルマニア11」でバンバンビガロを破った元NFL選手として知られる。

18. ペドロ・マルティネス(野球)/2000年

マルティネスが残した記録はどの時代においても驚異的である。防御率1.74、bWAR 11.7、WHIP 0.737、三振・四死球比率8.88、などがそうである。だが、歴史に残るシーズンにはさらに加えるべき事実がある。マルティネスの防御率1.74はアメリカン・リーグ1位だった。2位のロジャー・クレメンスのそれは3.70 だった。マルティネスは9イニング平均の被安打数が5.31で、これもアメリカン・リーグ1位だった。2位のティム・ハドソンのそれは7.52だった。WHIPでもマルチネスは0.737で1位、マイク・ムッシーナが1.187で2位だった。三振・四死球比率ではマルティネスが8.88で1位、デイビッド・ウェルズが5.36で2位だった。

このパターンはまだまだ続く。この年のアメリカン・リーグの打者は素晴らしい成績だった。マルティネスはその誰よりも凄かったのだ。マルティネスの偉大さを最も的確に表わす指標はERA+だろう。ERA+とは球場や対戦相手のような外的要因を加味して、投手の成績をより正確に評価するものだ。ERA+のリーグ平均は100であり、ERA+が150とはその投手がリーグ平均より50%上であることを示す。マルティネスのERA+は291だった。つまり、その年のアメリカン・リーグで平均的な投手より、マルティネスは191%上だったということだ。この数値は、最低162イニングを投げた投手のなかで、アメリカン・リーグとナショナル・リーグの歴代最高記録である。

17. テッド・ウィリアムズ(野球)/1941年

ウィリアムズは1941年シーズン最終日のダブルヘッダーを休場したとしても打率4割を達成していたのは有名な話だ。それでもウィリアムズは出場することを選択した。そして8打数6安打を記録し、シーズン最終打率を.406にまで引き上げた。それ以来、シーズン打率4割を達成した打者は出ていない。もう1つ有名な事実だが、ウィリアムズはその年のアメリカン・リーグMVPを受賞していない。56試合連続安打を記録したジョー・ディマジオに次いで2位だったのだ。その期間中の打率は、実はウィリアムズのほうがディマジオより高かった(ウィリアムズ.412、ディマジオ.408)。

そしてウィリアムズの出塁率.553は2002年までMLB最高記録であったし、長打率.735はストライキで短縮された1994年シーズンにジェフ・バグウェルに破られるまでMLB最高記録だった。ウィリアムズの驚異的なシーズンを表わす指標はほかにもある。bWARが10.4、本塁打37本、135得点、120打点、OPS+235、147四死球、そして喫した三振はわずかに27個である。

【豆知識】第二次世界大戦中に兵役に従事した1943~45年をのぞき、1939年から1960年までボストン・レッドソックスで活躍した。

16. ロジャー・フェデラー(テニス)/2006年

男子テニスの歴代最高シーズンを巡る議論では、ノバク・ジョコビッチの2015年を挙げる人はいるだろう(このシーズンもリスト入りしている)。ほかにも、ジョン・マッケンローの1984年(82勝3敗)やロッド・レーバーの1969年(年間グランドスラム)を推す人もいるだろう。だが、我々はここでロジャー・フェデラーの2006年を語ってみたい。フェデラーはその年、97試合中92勝をあげ、3つのグランドスラム大会で優勝した。全豪オープン決勝を4セットで制したときは、最後の2セットで2ゲームしか落とさなかった。ウィンブルドンも4セットで制し、そのシーズンで唯一、グランドスラムで土をつけられた相手に復讐した。全米オープンでは元チャンピオンのアンディー・ロディックを4セットで下した。

全仏オープン決勝戦も含めて、フェデラーがそのシーズンに喫した5敗のうち4敗はラファエル・ナダルから喫したものだった。当時は新進スターだったナダルはその年に驚異的な成績を残した。クレーコートで26勝0敗であり、そのサーフェイスでシーズンを無敗で終わった唯一の選手だった。ナダルのクレーコートでの強さは伝説的ですらある。2005年から2014年までの間、ナダルは全仏オープンを10回中9回優勝しているのだ。2016年、フェデラーは出場した17個の大会中12個で優勝した。ナダルに喫した4つの敗戦はすべて決勝戦だった。

15. ステフィン・カリー(バスケ)/2015-2016年シーズン

ステフィン・カリーは単に3ポイントショット成功のNBA記録を破っただけではなく、リーグ全体の3ポイントラインについての概念を変えてしまった。2015-16年シーズンを前に、そのルールが適用されてから30年以上が経っていたが、カリーはその時点で3ポイントショット成功に関するほとんどの記録を持っていた。それ以前のシーズン記録だったレイ・アレンのシーズン269本成功を2回(2012-13年に272本、2014-15に286本)上回っていたが、2015-16年シーズンにカリーが成し遂げることを誰も予想すらできなかった。

ゴールデンステイト・ウォリアーズはシーズン開幕後24連勝の快進撃でスタートしたが、カリーはその24試合中13試合で3ポイントショット成功5本以上を記録した。カリーの勢いはそれからも衰えなかった。自身が持っていた3ポイントショット成功のシーズン記録をシーズン58試合目で早くも更新したのだ。敵地のオクラホマシティ・サンダー戦でカリーは16本中12本を成功させ、1試合最多3ポイントショット成功数のNBA記録に並んだ。最後のショットは延長ピリオド残り時間0.6秒に同点の場面で放った38フィート(約11.6メートル)のものだった。

カリーは最終的に3ポイントショット成功数を402本まで積み重ねてシーズンを終えた。1試合平均30.1得点をマークし、同じく1試合平均2.1スティールはNBA1位であった。3ポイント成功率は45.4%、フリースロー成功率は90.8%、そして2ポイントショットは56.6%だった。そして前述したように3ポイントラインの概念を変えてしまった。それ以前にアレンが持っていた3ポイント成功記録は269本である。カリーがその壁を易々と越える402本を記録した後、次々とアレンの記録を破る選手が現れたのだ。ジェームズ・ハーデン(2回)、バディー・ヒールド(3回)、デイミアン・リラード(2回)、ポール・ジョージ、そしてダンカン・ロビンソンである。そしてカリーも3回だ。

14. ボブ・ギブソン(野球)/1968年

ギブソンの伝説的な1968年シーズンは我々に2つのレッスンを教えてくれる。1つ、ギブソンは32歳でそのシーズンを迎える前から野球殿堂入りをほぼ確実にしていた。現代最高のシーズン防御率は単にギブソンの伝説とクーパーズタウンでの位置を固めたにすぎない。ギブソンはナショナル・リーグ1位の268奪三振を記録し、9イニング平均で被安打は5.8だった。34試合に先発登板し、28試合で完投し、そのうち13試合を完封した。特に6月と7月は凄まじかった。先発登板した11試合すべてで完投し、8試合を完封し、防御率は0.27で、47イニング連続無失点を記録した。まさに圧倒的と呼ぶしかない。

そのことはギブソンの1968年シーズンにまつわる2つ目のレッスンを教えてくれる。投手成績において勝敗数は意味がない、ということだ。ギブソンは22勝9敗でシーズンを終えた。5月には4試合で先発登板し、防御率は1.87であったにもかかわらず、0勝4敗だったのた。ギブソンが敗戦投手になった9試合中8試合、セントルイス・カージナルスは2点以下の得点だった。そしてもう1つの敗戦試合では、カージナルスは2つのエラーで3点を失った(ギブソンの自責点は0)。

ギブソンの驚異的なシーズンはレギュラーシーズンでは終わらなかった。ワールドシリーズで3試合に先発登板し、防御率は1.67だった。第1試合では17奪三振で完封したが、これはワールドシリーズの歴史でも最高のピッチングだったかもしれない。無論、ドン・ラーセンの完全試合を除けば、ではあるが。

【豆知識】この年はMVPとサイ・ヤング賞を受賞しており、背番号の45はカージナルスの永久欠番にもなっている。

13. ルー・アルシンダー(バスケ)/1966-1967年シーズン

NBAのスーパースター、カリーム・アブドゥル・ジャバーに改名するずっと前、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でデビューしたアルシンダーは驚異的だった。ニューヨーク市のパワー・メモリアル高校ですでに伝説的な存在でもあった。高校時代のアルシンダーを見た人の多くは、大学を飛び越えてすぐにNBA入りするべきだと考えたに違いない。しかし、NBAファンが待たなくてはいけなかったように、大学バスケットボールのファンも待たなくてはいけなかった。その当時、大学1年生は公式試合に出場できないルールがあったからだ。だからこそ、アルシンダーが2年生になったシーズンが開始するや、瞬く間に全米の注目を集めることになった。

身長218cmのアルシンダーはまさに無敵だった。ライバルの南カリフォルニア大学を相手にしたデビュー戦で、アルシンダーは56得点をあげた。32本中23本のフィールドゴールを成功させ、21個のリバウンドを奪った。試合はUCLAが105-90で勝利した。アルシンダーは1試合平均29.0得点、15.5リバウンド、シュート成功率66.7%でシーズンを終えた。UCLAの戦績は30勝0敗で、全米トーナメントの全4試合を最低15点差以上で勝利した。

【豆知識】アルシンダーは、1971年にイスラム教に改宗し、カリーム・アブドゥル・ジャバーに改名。1989年までNBAで20年にわたってプレーし、現在も残る歴代1位のレギュラーシーズン通算3万8387得点を記録した。

12. バリー・ボンズ(野球)/2001年

2001年シーズンが始まる前、バリー・ボンズはすでにナショナル・リーグMVPを3回受賞し、トップ5にも5回選ばれていた。それでもそのシーズンにボンズが積み重ねた、まるでビデオゲームのような非現実的な成績を予見できた人間はいない。ボンズは4月に11本の本塁打を打った。5月は17本、6月は11本だった。7月はボンズにとっては「最低」の本塁打6本、出塁率.492、OPS 1.143だった。そして8月に12本の本塁打、9月に16本、シーズン合計73本で、マーク・マグワイアが持っていたシーズン本塁打記録を更新した。

そしてボンズの凄みは本塁打だけでは語れない。マグワイアは1998年に70本の本塁打を放ち、bWARの数値は7.5 だった。ボンズは2001年のbWARの数値が11.9 だったのだ。ボンズの出塁率は .515 だった。ナショナル・リーグで出塁率.500を越えたのは1924年のロジャース・ホーンスビー以来のことだった。そしてボンズの長打率.863はナショナル・リーグとアメリカン・リーグ合わせて史上最高記録である。

11. ベーブ・ルース(野球)/1921年

ベーブ・ルースの”最高のシーズン”を決めるのは楽しくはあるが、無益な作業だ。WARの数値を用いるならば、それが『Baseball-Reference』のbWARであれ、『FanGraphs』のfWAR)であれ、ルースの1923年シーズンは野球史上、打者の最高成績である。しかし、その年のルースは本塁打を41本”しか”打っていない。ルースはそれ以上の本塁打数を9シーズンで記録しているのだ。どうして1923年がルースの最高シーズンだと言えるのだろう?

1920年はどうだろうか。『ベーブ・ルース』が誕生した記念すべきシーズンだ。打者としてフル出場した初のシーズンで、ルースはアメリカン・リーグの他のどのチーム本塁打数より多い、54本の本塁打を打った。ボストン・レッドソックスのチーム本塁打数は22本、デトロイト・タイガースは30本で、両チーム合わせてもルースの個人本塁打数のほうが多かったのだ。そしてもちろん、60本の本塁打記録を樹立した1927年シーズンも忘れてはならない。しかし、我々は1921年を選ぶことにした。ルースは1927年より1本だけ少ない59本の本塁打を打った。そして打点168と、打率.378、出塁率.512、長打率.846 の驚異的な成績を残した。さらに、44本の2塁打、16本の3塁打、盗塁も17個あるのだ。WARの数値は打者としては歴代2位(12.9 bWAR/13.9 fWAR)だった。

10. シュテフィ・グラフ(女子テニス)/1988年

経歴: 72勝3敗、グランドスラム4大会優勝、オリンピック金メダル

テニスやゴルフのような個人スポーツのアスリートにとって、大会で優勝することはすべてである。特にメジャー大会の優勝はそうだ。そして1988年のシュテフィ・グラフが成し遂げた以上のことをすることは不可能である。ドイツ出身の若いスターは女子テニスの歴史で初めて4つのグランドスラム大会優勝とオリンピック金メダルを同じ年に獲得した。全豪オープンと全仏オープンを制したときもグラフはまだ18歳であったし、19歳の誕生日を迎えた後にウィンブルドンと全米オープンを制した。

この圧倒的な偉業は印象的ではあっても、驚くべきものではなかったかもしれない。1987年にはグラフは75勝2敗の成績を残し、その2敗はどちらもグランドスラム大会の決勝戦だったのだ。ウィンブルドン決勝でマルチナ・ナブラチロワに敗れ、全米オープン決勝でも再びナブラチロワに敗れた。その年の前半、グラフは全仏オープン決勝でナブラチロワを破り、自身初のメジャータイトルを獲得した。

グラフは1987年の全豪オープンには出場しなかったが、1988年の同大会では同じセット数を落とした。ゼロだ。1988年はグラフは同大会に登場し、まさに席巻した。決勝戦ではクリス・エバートを6-1,、7-6で下した。全仏オープンのグラフはさらに圧倒的で、1セットも落とさずに進出した決勝戦では、ナターシャ・ズベレワを6-0、6-0で退けた。この試合は全部で34分しかかからなかった。

ウィンブルドンで優勝することはもう少し困難だった。前年までナブラチロワが6連覇していたのだ。この年の決勝戦でもナブラチロワはグラフから第1セットを奪った。19歳の誕生日から3週間しか経っていなかったグラフは、その年齢とは思えないほどの強靭な意志と粘りを見せた。続く2セットを6-2、6-1で奪い返し、3度目のメジャータイトルを獲得したのだ。

全米オープン決勝の相手はガブリエラ・サバティーニだった。サバティーニはそのときまでにグラフが喫した年間3敗のうち2敗を奪っていた。春にフロリダで行われた別々のトーナメントだった。そしてサバティーニは全米オープン決勝でも第2セットを奪取した。しかし、グラフは最終的にサバティーニをねじ伏せ、最終セットを6-1で勝利し、女子テニスの歴史で最高のシーズンを締めくくった。

9. リオネル・メッシ(サッカー)/2014-2015年シーズン

経歴:57試合で58得点、バロンドール受賞、バルセロナ3冠達成、アルゼンチンをワールドカップ決勝戦へ導く

リオネル・メッシは地球上で最高のサッカー選手に贈られるバロンドールをこれまでに7回受賞している。最初は2009年だった。直近は2021年だ。比較になるのは5回受賞のクリスティアーノ・ロナウドくらいで、それ以外に3回より多く受賞した選手はいない。メッシはそれ以外にも、2位に5回、3位に1回、選ばれている。

しかし、ここで我々が語るのはキャリア通算成績ではない。最高の個人シーズンである。メッシのような偉大なスター選手のキャリアをどのように切り分けたらよいのだろうか? 60試合で73得点をあげた2011-12年シーズン? 53得点の2010-11年シーズン? それともバルセロナで爆発した2008-09年シーズン? どれも捨てがたい。

我々は忘れがたい2014-15年シーズンを選ぶことにした。メッシはイタリアで行われたワールドカップでチーム最多の4得点をあげ、アルゼンチンを決勝戦に導いた。バルセロナでは58得点、27アシストを記録した。バルセロナはチャンピオンズリーグ、ラ・リーガ、そしてコパ・デル・レイの3大会で優勝した。メッシはラ・リーガで大会最優秀選手に選出された。コパ・デル・レイの決勝戦では2得点をあげ、3-1の勝利に貢献した。

最初のゴールはいかにもメッシらしいものだった。ディフェンダーたちを抜き去り、信じられないようなシュートでキーパーの頭を越えて、ネットのコーナーを揺らした。アナウンサーのロブ・パーマーはメッシにかかるとピッチ上のディフェンダーたちが皆新人に見えると言った。「これを見てくれ! メッシの素晴らしいプレイだ! 最後まで行けるか?(長い沈黙)コパ・デル・レイ決勝戦で最高のゴールだ! リオネル・メッシは魔法使いだ!」。

8. トム・ブレイディ(アメフト)/2007年

経歴:50タッチダウンパス、4,806 ヤード、レギュラーシーズン16勝0敗

今から15 シーズン前、トム・ブレイディはまだ初々しい若者だった。それまでに”たった”3回しかスーパーボウルで優勝したことがなく、”たった”3回しかプロボウルに選出されたことがない選手にすぎなかった。まるで大昔のように感じるかもしれない。2007年シーズンこそ、ブレイディが真のスーパースターとなり、将来の殿堂入りを確実にした年である。やはり将来の殿堂入りが確実視されるレシーバー、ランディ・モスをパス・ターゲットの中心に据え、ヘッドコーチのビル・ベリチックは、ニューイングランド・ペイトリオッツがいつでも、どのチームが相手でも、大差で勝てることを証明した。

シーズン開幕後の最初の10試合、ブレイディは毎試合最低3個のタッチダウンパスを成功させた。そのうちの7試合で、パス成功率は最低76%以上だった。ペイトリオッツは10連勝し、そのうちの9試合で最低17ポイント以上の得点をあげた。目を見張るほど圧倒的であったし、クォーターバックは攻撃の手を休めようとしなかった。3個のタッチダウンパスを投げられなかった最初の試合(第12週目のフィラデルフィア・イーグルス戦)においても、ブレイディは380ヤードのパスを成功させたし、第4クォーターでは8本中6本のパスを成功させ、66ヤードを獲得した。それがローレンス・マロニーの決勝タッチダウンをセットアップし、ペイトリオッツは無敗記録を守った。

その次の週はマンデーナイト・フットボール(月曜夜のフットボール)の試合があり、ペイトリオッツはボルティモア・レイブンズに第4クォーターまでリードを許していた。試合時間残り3分30秒から、ブレイディはパスで2つのファーストダウンを奪い、さらにラッシュで2つのダウンを奪った。そして残り55秒でエンドゾーン後方のジャバル・ガフニーにボールを渡し、決勝タッチダウンを演出した。

ブレイディとペイトリオッツはレギュラーシーズンを16勝0敗の完全レコードで終了した。ブレイディは第17週目に2つのタッチダウンパスを成功させ、それまでペイトン・マニングが持っていたシーズン49個の最多記録を抜き、50タッチダウンパスに到達した初の選手になった。その一方で、ブレイディが与えたインターセプトは8個しかなかった。合計ヤード数は4806ヤードに達し、ブレイディはキャリアハイのパッサー評価指数117.2を獲得した。

7. ボー・ジャクソン(野球&アメフト)/1989年

経歴(MLB): 本塁打32 本, 105 打点, 盗塁26 個
経歴 (NFL): 950 ラッシングヤード、 キャリー平均ヤード5.5、 タッチダウン4個

ボー・ジャクソンほど全米の注目を集めたアスリートは数少ない。2つのスポーツでスターになり、毎日のようにどちらかのフィールドで目の覚めるような活躍を見せたのだから。1987年から1990年まで、ジャクソンはMLBカンザスシティ・ロイヤルズとNFLロサンゼルス・レイダース(当時)の両方でプレイしたが、1989年こそが最高のシーズンだった。

野球のダイヤモンド上では、ジャクソンは4月末までに8本の本塁打を打ち、9個の盗塁を成功させた。そしてオールスター選手投票でアメリカン・リーグ全選手の中で1位になった。アメリカン・リーグのトニー・ラルーサ監督がジャクソンを1番打者に起用すると、初回にジャクソンはセンター後方に約137メートルの本塁打を放ち、その試合のMVPに選出された。シーズンが終了すると、ジャクソンは30本塁打30盗塁にわずか盗塁4個だけ足りなかった。

MLBのシーズンが終了すると、ジャクソンはNFLシーズン第6週目からレイダースに合流した。最初の試合でキャリー平均7.73ヤードを記録し、その試合最初のタッチダウンに成功した。第8週目には72ヤードのタッチダウンランを含む144ヤードのラッシュを記録した。別の試合では第1クォーターで92ヤードのタッチダウンランをあげると、それを含めたった13キャリーで159ヤードを獲得した。ジャクソンのスピードには誰もついてこれなかった。

これほどまでに大きく、強く、そして速かった選手はいない。その上、2つのスポーツでスターとして通用するスキルを持った選手はジャクソンのみだ。

ジャクソンがNFLでシーズン最初の試合に出場した後、スポーティングニュースは1989年11月6日付の記事でこう書いた。「レイダースもロイヤルズもジャクソンにフットボールか野球のどちらかを選ぶよう頼むことはできない。ロイヤルズは昨シーズンに32本の本塁打を打ち、打点105をあげた選手を怒らせたくないだろう。ましてやその選手はオールスターゲームでMVPに選ばれているのだ。10月15日の試合でジャクソンが85ヤードをラッシュして、ほとんど1人の力でカンザスシティ・チーフスに20-14で勝ったのを見た後では、レイダースはシーズン残りの10、11試合でジャクソンに期待するしかないだろう」。

6. バリー・サンダース(アメフト)/1988年

経歴: 2628ヤード、タッチダウン37個、ボウルゲームで222ヤードとタッチダウン5個、ハイズマン賞

バリー・サンダースは2628 ヤード、タッチダウン37 個で大学フットボール・ディビジョン1(1部リーグ)の記録を保持している。それだけでも、このリストに選出されるに十分な実績である。しかし、トップ10圏内に入っているのは、サンダースの1988年シーズンが30年以上経った現在でも信じられないようなものだったからだ。

当時はボウルゲームの数字が年間成績には含まれなかった。従って、2628ヤードとタッチダウン37個には、オクラホマ州立大がワイオミング大に勝利したボウルゲームでサンダースがあげた222 ヤードとタッチダウン5個は含まれていない。ウィスコンシン大の2人のランニングバックがキャリア記録でサンダースに近づいた。メルヴィン・ゴードンが2014年に2587ヤードをラッシュし、モンテ・ボールが2011年に33個のラッシング・タッチダウンを記録した。ゴードンとベルはどちらも14試合で記録を達成した。サンダースの記録は信じられないものだ。

オクラホマ州立大は1988年シーズンを10勝2敗で終えた。2敗はビッグ12カンファレンスのネブラスカ大とオクラホマ大から喫したものだ。サンダースはこれら強豪チームに対しても臆することがなかった。ネブラスカ大との試合では189ヤードと4個のタッチダウンをあげ、オクラホマ大との試合では215ヤードと2個のタッチダウンをあげたのだ。300ヤード以上を獲得した試合も4試合あった。そして、チームは楽勝したものの、サンダース自身は”最悪”の成績で終わったミズーリ大戦でさえ、154ヤードと2個のタッチダウンを記録した。シーズン全体ではキャリー平均7.6ヤードだった。さらに加えると、サンダースはラッシュだけではなく、キックからのリターンにも長けていた。キックオフからとパントからのタッチダウンをそれぞれ1回ずつ記録しているし、リターナーとしても515ヤードを積み上げた。

スポーティングニュースは1988年12月11日付の記事でこう書いた。「もしサンダースがスポーティングニュースの大学アメフト年間最優秀選手に選ばれなかったとしたら、もしサンダースがハイズマン賞に選ばれなかったとしたら、もしサンダースがオール・アメリカン・チームの筆頭に選ばれなかったとしたら、それらは喜劇としか呼びようがない。これらの賞は驚異的なアスリートが行なった驚異的な出来事を称賛するためにある。そして今年のバリー・サンダースほど驚異的な1シーズンを送った選手はほかにいない」。

※1989年にデトロイト・ライオンズでNFL入り。デビューから引退までの10年間、プロボウル(オールスターゲーム)とオールプロに毎年選出される実力と人気を誇った。

5. マイケル・ジョーダン(バスケ)/1990-1991年シーズン

経歴: 31.5 得点、 6.0 リバウンド、 NBA 優勝、リーグMVP、ファイナルMVP

このリストは優勝を経験したことがある選手の偉大なシーズンだけを選ぶものではない。しかし、ジョーダンのような偉大な選手の偉大なシーズンを選ぶとき(何しろ、我々は1人のアスリートにつき、1つのシーズンしか選ばないのだから)、優勝記録はタイブレーク要因として使うことになる。そして、もしジョーダンがNBAを制した6シーズン以外の年を我々が選んだとしたら、ジョーダン自身はおそらくそれに合意しないだろう。従って、我々は1986-87年シーズンを選ばなかった。そのシーズンのジョーダンは1試合平均37.2得点をあげ、ウィルト・チェンバレン以外でシーズン3000得点を達成した初の選手になった。我々は1988-89年シーズンも選ばなかった。そのシーズンのジョーダンはキャリアハイとなる平均リバウンドとアシストを記録した(どちらも8.0)。

我々に残された選択肢は1990-91年シーズンだった。ジョーダンが初めて優勝したシーズンだ。その年のジョーダンは1試合平均で31.5 得点、 6.0 リバウンド、5.5アシスト、2.7スティールの記録を残した。フィールドゴール成功率はキャリアハイの53.9%だった。さらに選手のパフォーマンスを評価する指標(PER)や勝利への貢献度を評価する指標(Win Shares)を用いても、このシーズンはジョーダンのベストにほぼ近い。そして何より、ジョーダン自身が待ち望んだタイトルを獲得したのだ。

ジョーダンはプレーオフ最初の2ラウンドで素晴らしかったし、宿敵のデトロイト・ピストンズをシリーズ4連勝で破ったことは、おそらくジョーダンのキャリアで最もカタルシスを起こさせたシリーズではなかっただろうか。この東カンファレンス・ファイナル最終戦でジョーダンは29得点、8リバウンド、8アシストをあげた。NBAファイナルの5試合では(シカゴ・ブルズは第1戦を落とし、続く4試合を連勝した)、1試合平均で31.2得点、6.6リバウンド、そして驚異的な11. 2アシストを記録した。ジョーダンはマジック・ジョンソン以外で、1試合平均11アシスト以上をNBAファイナルで達成した初の選手となった。

4. タイガー・ウッズ(ゴルフ)/2000年

経歴: メジャー大会優勝3回、優勝9回, 20大会で17回のトップ10入り

最も有名なウッズの偉業と言えば、もちろん1997年のマスターズ初優勝である。しかし、ウッズのキャリア最高のシーズンは2000年だった。当時24歳のウッズはシーズン開幕戦のメルセデス選手権でアーニー・エルスをプレーオフで下し、2月のAT&Tペブルビーチ・ナショナル・プロアマでは7打差を挽回する大逆転勝利を収めた。3月にはアーノルド・パーマー・インビテーショナルで4打差をつけて優勝、5月にはジャック・ニクラウスがホスト役を務めるメモリアル・トーナメントで5打差をつけて優勝、そして9月にはカナダ・オープンで優勝した。カナダ・オープンでは最終72ホール目にバンカーから池越しに218ヤードを6番アイアンでピンそばに寄せる神業ショットでバーディーを奪い、1打差での優勝を引き寄せた。

しかし、ウッズがそれからシーズン後半のメジャー大会を3連覇することまで予想できた人はいない。その年の全米オープンは6月にペブルビーチで行われた。ウッズは2月に大逆転勝利を収めた同じ場所で、12アンダーの驚異的なスコアで優勝した。他のすべてのゴルファーが最低でも3オーバーで、ウッズは2位のエルスとミゲル・アンヘルに15打差をつけた。全英オープンは7月にスコットランドのセント・アンドルーズ・リンクスで行われた。112個ものバンカーを持つ有名なコースだ。ウッズは大会中1度もバンカーにボールを落とすことなく、8打差で悠々の優勝を遂げた。

8月の全米プロゴルフ選手権ではドラマがあったが、結末はいつも通りのようだった。最終日である日曜日の第18ホールでバーディー・パットを沈め、3ホールのプレーオフに突入した。ウッズは最初のホールでバーディーを取り、残り2ホールをパーでまとめ、メジャー大会3連覇を達成した。その年ウッズは20大会に出場し、9大会で優勝、4大会で2位、そして17大会でトップ10内に入った。そして年末にスポーティングニュースが選出した『パワー100』(その年の100人ランキング)で第1位となった。それを聞いたとき、ウッズはこう言った。「パワフル?それはちょっとおかしいね。僕がパワフルだって感じるのはジムで良いトレーニングができた後だけだから」。

ウッズは2001年度の最初のメジャー大会であるマスターズでも優勝し、後に『タイガー・スラム』と呼ばれることになるメジャー大会4連覇を達成した。

3. ウェイン・グレツキー(アイスホッケー)/1981-1982年シーズン

経歴: 92得点、 120アシスト、 80試合で212ポイント

”The Great One”と呼ばれるグレツキーがデビューする前、NHLシーズン最多得点とポイントはフィル・エスポジト(ボストン・ブルーインズ)が1970-71年シーズンに達成した76得点、152ポイントだった。そしてエスポジトのチームメイトだったボビー・オアがシーズン最多アシスト記録(102)を保持していた。

グレツキーは19歳の新人だった1979-80年シーズンではどんな得点記録も更新しなかった。グレツキーが”ただ”達成したのは、51得点、86アシストをあげて、デビューした年にハート記念賞(MVP)を受賞したことだ。2年目のシーズンには、エスポジトのポイント記録とオアのアシスト記録が破られた。グレツキーが109アシストと167ポイントをあげたのだ。それでも、エドモントン・オイラーズでの3年目にグレツキーが成し遂げたことには比べようもなかった。シーズン開幕当初はむしろスロースタートだった。最初の4試合で4ポイントだけだったのだ。周知の通り、そこからグレツキーは調子を上げた。最初に破られた記録は自身が持っていた合計ポイントだった。第63試合目に5ポイントを獲得して、記録は更新された。その3日後の第64試合目、エスポジトが見守るなか、グレツキーはハットトリックを決め、この殿堂入り選手を抜き去った。第74試合目では自身のアシスト記録も更新した。

グレツキーは15試合で最低3つのアシストを記録し、10試合でハットトリックを達成した(1試合最高は5得点)。オイラーズが戦った80試合中23試合で最低4ポイント以上を獲得した。シーズン全体で、グレツキーが残した成績は92得点(現在もシーズン最多記録)、120アシスト、そして212ポイントである。1試合平均では2.65 ポイントになる。グレツキーはこのシーズンを含め、8年連続でハート賞を受賞した。その後もシーズン200ポイント以上を3回達成している。この壁を越えた選手はほかにいない。1985-86年シーズンには215ポイントを獲得して、自身の記録を更新しただけでなく、163アシストという信じがたい数字も残した。NHL史上、ほかにシーズン163ポイントを達成したのは前述のマリオ・ルミューのみである。

※上記の年の記録以外にも数々の記録を残しており、現代においてもアイスホッケーの神様と称される。引退後は2002年ソルトレイクシティ五輪でアイスホッケー・カナダ代表監督を務め、50年ぶりに金メダルをもたらした。

2. ウィルト・チェンバレン(バスケ)/1961-1962年シーズン

経歴: 1試合平均50.4 得点、25.7リバウンド

ウィルト・チェンバレンの最も有名な写真は、ロッカー前に座ったチェンバレンが黒いサインペンで100と書かれた白い紙を掲げているものだ。1962年3月2日、この身長216cmのフィラデルフィア・ウォリアーズ(当時)の選手は1試合100得点というNBA記録を達成した。それまでは誰もやったことがなく、それ以来誰もできていない記録である。

しかし、チェンバレンがここにいるのは、その1試合のためだけではない。1試合100得点は北米スポーツでそれまで誰も見たことがなかった圧倒的な成績を残したシーズンの記念碑的な出来事にすぎなかったのである。NBAの全歴史で、1人の選手が73得点以上をあげた試合は6試合しかない。チェンバレンはそのうちの3試合を1961-62年シーズンで達成しているのである。

100得点試合のほか、1961年12月2日に78得点、そして1962年1月13日に73得点をあげた。このシーズンで”最低”得点に終わった試合はビル・ラッセルを擁したボストン・セルティックス戦での26得点だが、チェンバレンはその試合でも31リバウンドを記録している。最低リバウンドの試合では15リバウンドだったが、その試合では41得点をあげている。

チェンバレンは1961-62年シーズン全体で4029得点、1試合平均50.4得点を記録した。史上2位はマイケル・ジョーダンの1986-87年シーズンで、3041得点、1試合平均37.1得点である。1試合平均25.7リバウンドはチェンバレンにとっては自身3番目のシーズン記録であるが、それでもNBAの歴史でそれを超えた選手はいない。チェンバレンに次ぐ歴代4位のビル・ラッセルの記録は24.7である。

1. 大谷翔平(野球)/2021年

経歴(打者):本塁打46本、100打点、盗塁26個、OPS+ 158、bWAR 4.9
経歴(投手):防御率3.18、先発登板23回,、投球回数130回1/3、被安打98本、奪三振156 個、bWAR 4.1

先例のない2021年シーズンを通して、大谷翔平は我々が抱く偉大な野球シーズンの概念を変えてしまった。大谷はアメリカン・リーグ最高の指名打者として46本の本塁打を打ち、サイ・ヤング賞候補及びロサンゼルス・エンゼルス最高の投手として156個の三振を対戦打者から奪った。

NFLのパトリック・マホームズがセーフティーとしてパスを奪う場面や、NHLのアレクサンドル・オベチキンが週に1回だけゴーリーとしてシュートを大きなパッドで防ぐ場面を想像してみてほしい。考えるのも馬鹿げていると思うだろう。しかし、大谷は単に2つの異なった野球のスキルで競っただけではなく、その両方で優れていたのだ。

「比べるとしたらベーブ・ルースしかいない。それでも実際には苦しい比較だ」とエンゼルスのジョー・マドン監督はスポーティングニュースに言った。周知の通り、マドンは2008年にタンパベイ・レイズを前年度の66勝から97勝チームへと変貌させ、ワールドシリーズへ進出させた名監督だ。そして、シカゴ・カブスの108年に及ぶ空白期間を終わらせてワールドシリーズ制覇を成し遂げた監督でもある。その雄弁な名監督でさえ、大谷が2021年に成し遂げたことを表現しようとすると、思わず言葉を失ってしまうのだ。

「これに似たようなことは見たことがない」とマドンは言った。

大谷はアメリカン・リーグのMVPに満票で選ばれた。トロント・ブルージェイズのブラディミール・ゲレーロ・ジュニアが打者として驚異的なシーズンを送り、例年なら文句なしにこの賞に選ばれていたであろうことを考えると、実に驚くべきである。大谷は6月と7月にアメリカン・リーグの月間最優秀選手に選ばれた。投手として19試合に先発し、そのうちの15試合で自責点2以下に抑えた。打者としては6月と7月の21連戦において、16本の本塁打を打ち、OPS 1.398をマークした。

これが1人の人間によって、1つのシーズンで、成し遂げられた偉業であることを忘れてはならない。

原文:The 50 greatest seasons in sports history, ranked
翻訳:角谷剛

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著者
Ryan Fagan Photo

Ryan Fagan, the national MLB writer for The Sporting News, has been a Baseball Hall of Fame voter since 2016. He also dabbles in college hoops and other sports. And, yeah, he has way too many junk wax baseball cards.