【1988年3月21日】井上vsネリで再注目|マイク・タイソンが東京ドームで衝撃KO劇を見せた日

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Mike Tyson in action
Takeo Tanuma/ Sports Illustrated via Getty Images

井上尚弥が5月6日、東京ドームでの約34年ぶりのボクシング興行で悪童ルイス・ネリを相手にメインイベントに立つ。それはマイク・タイソン以来の偉業としてあらいる意味で注目されている。

今からちょうど36年前の1988年3月21日は、そのタイソンが日本に衝撃を与えた記念日だ。名門『The Ring』誌(リングマガジン)元編集人で本誌格闘技部門副編集長のトム・グレイが振り返る。

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1980年代、時代の寵児だったマイク・タイソン

マイク・タイソンが、ユーチューバーのジェイク・ポールと「世紀の一戦を戦う」などと大々的に宣伝された馬鹿げたイベントに関与する数十年前、彼は紛れもなく主要3団体(WBA/WBC/IBF)時代における本物のヘビー級アンディスピューテッドチャンピオンであり、おそらく世界で最も有名なスポーツマンだった。

1986年11月にWBCタイトル保持者のトレバー・バービックを相手に見事な2ラウンドKO勝ちを収めたタイソンは、ボクシング史上最年少ヘビー級世界王者となった。「20歳5か月」での戴冠記録は今日まで残っている。

ブルックリン生まれの『破壊者』は、その後ヘビー級の(当時の)メジャータイトルを統一し、1988年1月に偉大な老兵ラリー・ホームズを屠る(ほふる)までに、33勝0敗(29KO)という驚異的な戦績を残した。

プロとしてのキャリアを邁進していたタイソンは、もっぱら米国内で試合を行っていた。しかし、ニューヨークやラスベガスの外にもボクシング市場があり、プロモーターのドン・キング氏は、タイソンが持つ世界屈指の集客力を米国外でも利用したいと熱望していた。

当時、若きタイソンがヘビー級ボクシングシーンを壊滅させたことで、彼はもはや時代の『カルチャー』(文化)に上り詰めた。それは日本でも同様だった。

『日出ずる国』では、1973年9月にジョージ・フォアマンが、不運なホセ・ローマンを1ラウンドで蹴散らして以来(編注:ローマンはダウン時、フォアマンに意図的な追い打ちを受けたと主張するも認められなかった)、ヘビー級の世界戦が開催されていなかったが、 タイソンマニアたちがこの国に完璧な機会を提供した。

キング氏は、高く評価されている日本のプロモーター、本田明彦(帝拳プロモーション)氏と協力してタイソンの『日本侵攻作戦』に着手する。対戦相手は問題ではなかった──結局のところ、それはマイク・タイソンのワンマンショーでしかないからだ──そして、元WBA世界ヘビー級王者のトニー・タッブスが『生贄の子羊』として指名された。

ただ、丸々と太ったタッブスにはトレーニングキャンプで怠け癖が出るという懸念があった。実際、日本の運営サイドは、ヘビー級の試合とはいえど、タイソンとの体重差のミスマッチを恐れて、挑戦者の体重が235ポンド(106.6kg)以下なら5万ドルを追加で支払うと約束していた。はっぱをかけられた形のタッブスだったが、3ポンド超過でボーナスを逃した。

1988年3月21日:世界最凶の男による日本上陸と衝撃KO劇

前述どおり、試合は1988年3月21日に東京ドームで行われた。苦戦が予想されたタッブスは、その丸々とした体型にしては信じられないほどクイックな動きで、第1ラウンドを優位に進めた。タッブスはタイソンにジャブを突き刺しながら動き続け、目を引く手数で驚かせたのだ。

しかし、当時のタイソンは、ケビン・マクブライドという平凡な選手に負けて不名誉な形でキャリアを終えた「2005年のタイソン」ではなかった。騒々しいミット打ちのルーチンで新世代のファンのご機嫌を伺う現代の「ソーシャルメディア・タイソン」ではなかった。この時のタイソンは、ケビン・ルーニーの導きにより世界王者となった「史上最高のマイク・タイソン」だった。

こうなるとタッブスに神のご加護は期待できなかった。

第2ラウンド終盤、タイソンは右ボディに続いて、アゴを打ち抜く右アッパーカットという得意のコンビネーションを決めた。そのままロープに押し込んでクリンチ状態になると、レフェリーが両者のブレイクを命じた。この時点でタッブスのダメージは定かではなかったが、間もなく日本の群衆は決定的シーンを目撃することになる。

挑戦者が前に歩こうとした時、その巨体がよろついたのだ。相手の窮状に気付いたタイソンは距離を詰め、タッブスが尻もちをついてキャンバスに倒れる瞬間に致命傷になりかねない左ブローをわずかに外した。相手トレーナーのオデル・ハドリーがリングに飛び込み、タッブスを助けに走ったとき、もうカウントする必要はなかった。

これこそタイソンファンが期待していた「いつものマイク・タイソンのKO勝利」だった。

それからマイケル・スピンクスらを下して3勝を重ねた世界最凶のチャンピオンは、2000年2月11日、約2年ぶりに東京ドームに戻り、ジェームス・ダグラスと戦った。その夜が終わった時(ダグラスの10ラウンドKO勝利よる大番狂わせによって)、タイソンと日本は、誰も予想していなかった形で永遠に紐づけられることになった。

一方、タッブスとっては、1988年3月21日がキャリア最後のメジャータイトルマッチとなった。シンシナティ出身の元王者は、47勝10敗(25KO)の戦績を残して2006年に引退した。

そして今、井上尚弥 vs. 悪童ネリの東京ドーム決戦の決定により、タイソンのあの日の日本侵攻が再注目されている。タッブス戦は51000人、ダグラス戦は51600人を動員したという公式記録がある。5月6日、『モンスター』井上は34年ぶりの東京ドームでのボクシング興行で、日本人として初めてメインイベントを飾り、タイソンの動員記録を塗り替え、タイソンの日本上陸の衝撃を超えることができるのか。

※本記事は国際版記事を翻訳し、日本向けに編集した記事となる。翻訳・編集:スポーティングニュース日本版編集部 神宮泰暁
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著者
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Tom Gray is a deputy editor covering Combat Sports at The Sporting News.

神宮泰暁 Yasuaki Shingu Photo

日本編集部所属。ボクシング・格闘技担当編集者。